11回目の転職?

N-COMの解散を終えて、のんびり遊んでも居られず、即、次の仕事の準備をはじめました。それと言うのも、以前20数年前に休眠にしていた自分の会社の再開でした。法務局や道と市へ事業再開届を出し、得意先にもその旨をお伝えし営業開始しました。その後、今現在3年目を迎えましたが、市場の景気も左程よく無く仕事量も減りましたが、何とか継続しています。以前と変わった事は、印刷媒体が減った事です。ネットばかりが持て囃されて、新聞広告などは激減状態です。時代の流れとは言え、ネットに偏り過ぎの感も否めないないですがね。広告業界も時代の変わり目に差し掛かったとも言えますね。今後は新しい手法やジャンルを開拓していかなければいけないでしょうね。最近ではそれを考えながらの毎日です。

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10回目の転職?

転職と言うより友人と二人で立ち上げた新規開業でした。業種は総合広告代理業で左程代わり映えはしませんが、これまでの仕事の継続が主目的でした。私は得意分野の広告業務全般でイベントなども何度か熟していました。相棒はかなり昔から一緒に仕事をしようと話していた知人です。彼の得意分野はサイン関係や内装などでした。いずれも初めは順調な滑り出しでしたが、世の中は一体何が起きるか一寸先は分かりません。と言うのも2019年後半から新型コロナ禍の影響が出始めました。その後の4年間は、これまでとは全く違う環境になり思う様には売り上げも伸びず、更には法律改正で彼のジャンルの工事受注関係先の大手JVからの受注が出来なくなりました。つまり社内に建築資格者を雇用しなければ500万円以上の物件の受注出来なくなりました。コロナ禍はやや下火になったのですが2023年の10月をもって事業解散を決議し、負債の無い状態のままで法務局および各自治体関係先に届を出し整理いたしました。9年間の短い間に色々な問題を経験しました。しかし、このままで引退と言う訳には行きませんから、今さら勤める等の考えは無く、私はまた次の事を考えて居ました。

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9回目の転職は?

同業でしたが昔から交通広告等が主体だった友人の会社ニッコーコミュニケーションズに営業部長として誘われました。2年ほどでしたが、目的は会社の解散までのお手伝いでした。交通広告も下火になって将来的に明るい展望も期待できなかった事と、社員たちの士気の低下でした。案の定古い社員たちから退職希望者が出ました。東京の支社も含め、この際、解散する事になり、事前準備作業の為に札幌交通局の買い切り枠年間6千万円が経営上最も重い負担でしたから交通局に対して契約広告代理店グループからの退会を申し入れました。退会理由を知らない交通局からは猛反対を食らいましたし、同業の交通広告扱いグループ代理店からも非難ごうごうでしたが、退会決定しました。幹事社の電通の会議室にグループ社十数社と交通局も加わって臨時緊急会議の席上でハッキリ決意表明しました。その当時で既に全国の交通広告の年間買い切り枠などは存在せず、残るは札幌交通局のみでした。退会後しばらくして札幌市交通局も買い切り枠の廃止となりました。そんな訳で或る程度の仕事の整理も終了したところで本題の会社解散準備に取り掛かり、殆どの社員の退職金等の支払いも終えニッコーコミュニケーションズを解散しました。

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昔の名前で出ています。

印刷会社の一室から始まった石田大成社札幌営業所でしたが、どうしても善意とは言え、無料の家賃への罪悪感と、或る日、電通への同行を依頼された時から、ここから出る事を決意しました。何故なら、特定の印刷会社との関係も、大手デパートとの関係をも考えれば、今後の事も考えて、外部オフイスに引っ越す決意をしました。中心部の家賃は高く、負担軽減策として同業のデザイン事務所と同居する事にしました。30人近くの大所帯になりましたが、お陰様でデパートの仕事も私自身の持ち込んだ仕事も順調でした。デパート出店3周年を無事終えた頃、偶然にも地元印刷会社の元営業部長Y氏が入社し東京本部での研修後配属されて来ました。営業専門職とは言え自分自身のクライアントはありませんでしたが、前職では大型流通チェン店の担当だった事から、デパート専属をお願いしました。そんな或る日の事東京本部から専務と部長が来札。Y氏を副所長にしては?との打診があったため、この際、彼に即バトンタッチする事にし所長交代を申し出ました。私自身は流通関係の経験も無かったので格好の人事と思ったからと、デパートも落ち着いて来たので、そろそろ退社を考えていたからです。人が変われば社風も変わりますが、暫くは引継ぎで在籍する事にして退職の機を考えていました。Y氏は前職のやり方と思われる方法で営業所をまとめ始めましたが、かなり強硬な面もあり、何人もの若手社員が辞めて行きました。デパートも7周年を迎えると同時に退職を決断しました。入社時に正社員を提示されたのに辞退して、あえて契約社員を願い出た理由は、いつでも辞める事が出来るようにと考えていたからです。

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♪昔の名前で、出て~い~ま~す。<第2弾>

明けましておめでとうございます。更新しようと思いながら、とうとうお正月になりました。さて、前職の社名の一部を引き継ぐ形で『有限会社アド萬年札幌』の事務所立ち上げまでは良かったものの仕事は全く無く、毎日がPCでのメールや掲示板への記事掲載や、慣れないスキャナーやCDやMOドライブなどの周辺機器テストやら、これも初めてのMacの操作など遊び半分で2年間が過ぎました。お蔭様でWindowsはもとより、我流でMacでの制作も可能になり、大通と言う場所柄か、人の出入りも盛んでした。とは言うものの、殆どがクライアントやメディア関係者ではなく、前職の部下や東京本部や大阪本部退職者の人達でした。つまり、彼らが立ち寄る格好の札幌支店のようなものでした。そんな彼らのお手伝いがてらに新しく購入したBMWが働いてくれました。私は運転手兼コーディネーターですが、殆どが無償ボランティアでした。しかし或る日、前職の東京本部マーケティング部門の同僚清水氏がやって来て話を聞くと『未だ内密だけど、某百貨店の札幌出店準備のお手伝い』だと言うのです。その準備室へのプレゼン中だとも。よく聞けば、彼の転職先は石田大成社と言う某百貨店のハウスエージェンシー的な広告代理店兼印刷会社との事。さらには某百貨店の全国の所在地はもとより海外は中国や香港にも支店展開しているとの事でした。しかし、かつての同僚と言う事で、相変わらずの無償ボランティアでした。数か月後の或る日、石田大成社の当時の阿部専務取締役が来札し『札幌営業所立ち上げをしてくれないか?』とのオファー。清水氏の計らいでしょう。私は『立ち上げたばかりの自分の会社を潰す訳には行かない』と言いましたが『そのままで良いから』との事で引き受ける事になり某印刷会社の空きスペースをお借りして準備室として自分のPCなどを持ち込んでスタートしました。東京本部から営業職2名、現地の制作スタッフ2名そして所長の私の5名体制で百貨店のオープン準備作業開始です。

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