すっぱいは成功の元/十勝ワイン

十勝ワインは、生産地である池田町だけでなく北海道を代表する名産品で、その開発物語は、後の一村一品運動のお手本にもなりました。十勝ワイン発売当時、私はまだ子供でしたが、池田町の親類が札幌の我家を訪れるたびに、発売したばかりの十勝ワインを置いていったことを覚えています。内緒で飲んでみましたが、当時の主流だったポートワインと違ってすっぱいだけ。大人にも人気はなく、どうかするとそのまま飲まれないで置きっぱなしになっていました。おそらくワインに対する理解が進んだ現代でも、あまり高い評価は得られないようなものだったような気がします。
その発案者であった丸谷金保町長の、ワインにかける意欲はすさまじいものでした。道庁に出かける町役場の職員や町会議員、札幌に親戚のいる人は、みなワインを手土産に持たされ、議会や役場での会議、役所関係者の宴会などでは、ビールや日本酒ではなくワインが出たそうです。
そんな強引なやり方に対して、当然激しい批判がありました。反対派と聞くと、保守的な考えに凝り固まった農家と思いがちですが、実態は少々違ったように思えます。そもそも十勝地方は開拓の当初からアメリカ型の大規模・機械化農場を目指していて、農業関連の研究施設も整っていました。農家にも北大農学部や帯広畜産大出身者が多く、いわば日本の農業の最先端地帯でした。経営規模も国内の農家に比べれば桁外れに大きく、第一次大戦と第二次大戦の合間にあった、アメリカのコーンベルトの大凶作の時期には、十勝の穀物が世界の何割かを占めていたといわれています。経済が衰退しつつあったとはいえ、反対派の言い分は税金を投入するなら更なる機械化や大規模化、品種開発など、農業基盤の整備をという、プロフェッショナルな立場からの反対であったことは想像に難くありません。
今日なら、ワイン製造で知名度を上げ、ひいては関連商品の販売や観光にも波及効果をと考えるところですが、当時の十勝地方は、観光で訪ねる場所ではありませんでした。そもそもが何もない自然の中に農地が広がる北海道ならではの光景も、魅力としてとらえられたのは後の話で、なぜこんな場所でワインといわれながら、ただひたすら強引にすっぱいワインの啓蒙と、販路開拓を行っていきました。その後のサクセスストーリーはあちこちに紹介されていますが、事業スタート時の思い込みや強引さは、今日のマーケティング活動に失われてしまったかもしれません。丸谷氏は昨年6月、老衰のため94歳で亡くなられました。

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