明治の武士団入植。

北海道について語られるとき、いつも残念に思うのは、食い詰め武士団が入植して出来た土地、という言い方です。そういう祖先を持つ方に会ったことはありませんが、これはそう名乗る人はいないだろうということかもしれません。が、家老の家系の方には、取材で何人かお会いしました。このへんに大きな誤解があるように思います。

まず、食い詰め武士には、北海道に渡航する費用がありません。また、北海道に渡ったとして、森林を切り開き農地にし、そこに作付できるのはよくて翌年。その収穫はさらに秋まで待たなければならず、凶作や作付失敗、漁業の不漁などが起こります。その間、自力ではワラ1本調達できないので、住む家や、筵、衣類、農機具、そしてその間の食糧もすべて国元から送られていました。旧藩がどれほど豊かだったとしても、巨大な事業です。

こうまでして大名家が北海道開拓に力を入れたのは、鳥羽伏見など、明治維新の戦争のせいです。武士の時代には、戦争を行って勝てば報賞が得られました。その多くは敵国の領地です。その約束があるから参戦したと言っていいでしょう。でも、明治維新の際には、報賞がありませんでした。日本史上まれに見る規模の大戦争に参戦し、莫大な戦費を費やしたあげく、勝っても報賞がないとなれば藩の経済が危うくなります。明治政府にすればもう武家の時代じゃないから、ということだったのかもしれません。しかも非協力的なら、討伐の対象です。本来あるべき報賞の代わりが、北海道入植の権利でした。そこで大名家は藩の命運を賭けて、誰もやったことのないような大事業を行わざるを得なかったわけです。

それほどの大事業ですから、移民団の責任者は当然家老クラスでした。しかも同行する武士も無能ではありませんでした。素行や忠誠心の疑わしい者を選んで、サボタージュしたり、逃亡したり、命令の意味もわからないほどだったり、ましてや喧嘩して仲間を殺しでもしたら、国元からピストン輸送で食糧資材を送り続けた経費が、水の泡です。つまり、それなりに知能が高く、忠誠心が厚い者を選抜し説得して送り出さなければなりませんでした。いわば現代で言えば、専務、本部長クラスを代表にした、平均的なサラリーマンが移民団の中心だったわけです。それを食い詰め武士呼ばわりは、当時の武士団にいささか失礼なわけです。

ただしそんな状況ですから、食い詰めてこそいないものの、過酷な運命が待っていたことは変わりません。まず、明治政府から言い渡された蝦夷地開拓の権利とは、絵に書いた餅どころか、絵にすら書いてない空約束でした。私は実際に加賀藩の家臣団が入植の際に携行した日本地図を、家老の子孫の方から拝見させて頂きました。がそれは北海道がサツマイモの形をしており、サハリンと樺太が別々にありました。間宮林蔵が蝦夷地の詳細地図を作っていたとはいえ、それは幕府のためのもの。大藩の加賀藩すら手に入れることはできない、極秘中の極秘でした。

そんな怪しい地図ですが、彼らにとっては頼りの綱。薄暗く時に激しく揺れる北前船の船倉で、侍らしく泰然と座り、懐にしまった蝦夷地図に手を置いて、未知なる土地へ思いを馳せる姿を想像すると、胸にこみあげるものがあります。ちなみに地図は、当時の小さめの半紙を継ぎ合わせた上に書いてあり、糊が劣化してバラバラでしたが、慎んで撮影させていただいた上で、表具してお返ししました。

さて、移民団はひたすらお国のためと信じて大自然との戦いに明け暮れましたが、明治4年に、彼らの希望を打ち砕く出来事が起きました。つまり開拓使は、北海道の土地の所有を、北海道に本籍を置く者に限るという法令を発布したのです。こにれはさしもの武士団にも大きな衝撃が走りました。それまで、藩主の所有物である開拓地を切り開き、大きな収益をもたらして故郷に錦を飾り、出世して家門を繁栄させるという夢が、根底から覆されたわけです。この時にはさすがに多くの武士が帰国したと言います。でも、家門を捨て蝦夷地住民に身を落としても、お国の財産を守ろうとした人がいたから、大藩の家老職の子孫が、いまも北海道に住んでいるわけです。

お人好しや運の悪さも時として罪ではあるかもしれませんが、北海道入植の武士団は、能力が低いために食い詰めた人間とは、真逆の存在だったことは間違いありませんでした。

カテゴリー: 北海道スタンダード パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください