僕は、実家を離れて福井県勝山市の全寮制高校に通っていた。先輩から音楽部の部長を譲られ、コーラスの指揮や吹奏楽に没頭した。夏休みには東京の姉夫婦の家にしばらく遊びに行き、その間、毎日のように新宿のライブハウス(当時:ジャズ喫茶)でステージ演奏を見るのが楽しみだった。「シャープ&フラッツ」や「東京キューバン・ボーイズ」などのビッグ・バンドの演奏に感動し、「ドライ・ボーン」などの曲目ではステージが真っ暗になると蛍光で骸骨が演奏しているようなショー・バンドの演出に度肝を抜かれた。勝山に戻って聞きかじったジャズやアメリカン・ポップスの曲を「気になる女の子にプレゼント!」などとラジオにリクエストした。早速、東京かぶれで真似をして派手な文字とラメ入り譜面台をいくつも手作りして、隣の高校の吹奏楽部と、また隣の中学の吹奏楽部に合同での活動を持ちかけ「田舎のビッグ・バンド」は結成された。街のお祭りではアイスクリーム一個の報酬で炎天下を「マーチ演奏」で練り歩き、敬老会では「軍艦マーチ」を演奏して大喝采をあびたり、派手な活動の傍ら、団員の集会所にしていた(団員の家の空き家)風呂屋で話し合った。「何かいいことしようか」と。「夏休みに過疎地の分校に慰問に行かないか」と言う意見に皆賛成した。早速分校に電話で「僕たちの演奏で分校の小学生の子たちに、元気をプレゼントさせてください」と連絡すると女先生は喜んで受け入れてくれた。当日、初めて行く遠い遠い山間部の分校へデコボコの砂利道を数時間バスに揺られて楽器を抱え、汗びっしょりで到着。なんと、狭い講堂に小学生児童ばかりか、村人まで大勢の人たちが笑顔で迎えてくれたのだ。オルガンしかない分校の児童たちは管楽器を見るのも聞くのも触るのも初めてだと言う。演奏が始まると真剣に聞き入って一曲ごとに割れんばかりの拍手をくれた。普段の活動での町の観客とは全く違う空気を感じた。最後にオルガン演奏で「赤とんぼ」の「正確なうたい方」を歌唱指導したあと、全員で合唱。僕の振るタクトは感激で震えた。帰りのバスを見えなくなるまで全員が手を振って送ってくれた。バスの窓から身を乗り出して手を振る僕たち団員全員の目も潤んでいた。こんなに歓んでくれた彼ら彼女らよりも団員の僕たちの方がお礼を言いたいくらいに嬉しかったからだ。毎年暑い日になると、あの時の夏休みを想い出す。僕たちも今は夫々の生き方をしているが、あの時のあの子たちは今、どうしているのだろうか。社会生活の中で人々に感動を与えることを僕たちは忘れて居ないだろうか。夏になると新宿で遊んでいた不良高校生の僕も初めての充実感を味わった夏休みの事を想い出す。今からでも出来る小さな社会貢献は、まだきっと有ると思う。